どうもお久しぶりです(ブログは)。宇部の人権学習会以来の記事でしょうか?
さてさて3月です。僕が大学を卒業して丸1年が経とうとしています。24歳になりました。大卒フリーターの1年間をおさらいしてみましょう。
ブラックなカレー屋をやめる
昨年の3月僕は大学を卒業しました。大学院には落ち、内定はもらいつつも始めからやめるつもりで就職するのもどうかと思い、青年海外協力隊に挑戦しようと考えていました。
こういう状態で卒業したイメージ
昨年2月まで個別指導塾とインド料理屋でバイトをしていましたが、塾は夕方しか働けないので大学卒業後はインド料理屋一本に絞りました。これが悲劇の始まりだった。とっくに分かってはいたのですが、とてもブラックなバイトだったので、給料がもらえないのがザラ(ちなみにまだ6万くらいもらってません)。ただ、賄いが出るので食費はかかりませんでした。当時の僕の体はインド料理とリプトンのミルクティーでできていたと思います。日本人スタッフは僕一人だったのでほぼ毎日丸一日の出勤でした。
お金がもらえないのはつらかったのですが、コックさんはとてもいい人でした。特にインド人のゴビンダさんとは仲良しで社長さんの愚痴を言ったり、世界のことについて話すのは毎日楽しかった。でもゴビンダさんは5月でインドに一度戻る予定で、「日本では働きたいけどこの店には戻らない」とのこと。むむむ、ゴビンダさんもいないし給料も出ないこの店で働くのか...
...
...無理だ。やめよう。稼げる仕事をしないと死んでしまう。いくら食費がうくといっても家賃、税金、光熱費、支払わないといけないものはたくさんあります。更には奨学金の返済も始まってしまう。うちも金が有り余っているような家ではないし、大学まで卒業させてもらったのに大学院も落ちてこんな身分の僕が、親のすねをかじるのも忍びない。できるだけお金で頼りたくない…。でもこのままじゃ死ぬ…。
僕はランチとディナーの間の休憩時間に「ワタシ、用事あるぅ、だからぁ、ちょっといくネ!」とコックさんと過ごしすぎてカタコトになった日本語で伝え(僕らはカタコトの日本語とカタコトの英語で意思疎通していました)、派遣会社に登録しに行きました。
ハケンになろう
僕はカレー臭い服で派遣会社の面接に行きました。当時僕の服は全部カレー臭が染みついていたように思います。
僕は青いジャケットに白いシャツと黒のパンツで行きました。「ちょっとカジュアルすぎたかな…。」緊張しながら面接会場の扉をあけました。先に一人女の人が来ていました。
女の人はジャージに金髪ロング、ティンバーランドのゴツイ靴を履いていました。僕の不安が完全な杞憂であったことが分かりました。
渡された書類を埋めていきます。僕はパソコンに詳しくないし、イラストレーターだのHTMLだの使えないド素人だったのでPCスキルはめちゃくちゃ不安でした。とりあえず正直にワードとパワポとエクセルしか使ったことがないことを書きました。「パソコンがご堪能なんですねぇ」と言われました。高校生でもその3つは使えるよ!それとも嫌味だったのでしょうか?
僕はハケンというのが何をするのかあまり理解していませんでした。僕の頭に真っ先に浮かんだのは篠原涼子。
そう、ハケンの品格。
真面目な僕は予習のためにハケンの品格を1話から全て見ました。9か月経った今考えると頭がおかしいとしか考えられません。でも面白かったからいい。
この時に僕はできれば通称名で働けるところがいい、とお話しておきました。このころに協力隊の書類を投函します。
コールセンターなんか無理だ!
PCスキルの低い僕には事務仕事ではなくコールセンターのお仕事が舞い込んできました。僕はコールセンターなんて絶対無理だと思って、一旦お断りしましたが「元気で明るいから大丈夫!きっとかわいがられますよ~」なんて無責任な予言に丸め込まれていつの間にやらコールセンターで働くことになっていました。
覚えることが多く不安な気持ちも大きかったのですが、研修で2個年下の人と仲良くなったので頑張ろうと思いました。「覚えること多いっすよねー」「でもやるしかないよねー」なんて話しながら。確かに覚えることが多いし電話のマナーも知らない。きつそうだ。でも友達もできたし、そういう人が一人いれば頑張れるだろ。よし、頑張ろう。
しかし彼は研修後すぐにやめてしまいました。まじか。
なんだかんだでなじむ
でも、派遣会社の人の無責任な予言が現実になりました。かなりかわいがられたほうだと思います。
コールセンターでの仕事は思っていたより向いていました。人と話をするのは苦ではなかったし、できることが増えるのは楽しかった。何より職場の人がみんな優しかった。そして僕は通称名で働けていたので非常に快適でした。
僕はもともと一発で受かってやる!と思っていたので、昨年の8月には受かっている予定でした。だから仕事も8月いっぱいのつもりでいた。そうなると仲良くなって離れるのもいやだなーと思って初めはあまり人と交流していませんでした。結局7月くらいから我慢できなくて交流し始めましたが。
だけど人生そんなに甘くない。合格発表の日、合格者一覧には僕の受験番号は載っていませんでした。家で悔し泣き。合格通知の代わりに届いたのは「登録合格」と書かれた紙でした。
登録合格から合格になることはほとんどないから期待しないほうがいい。ネットで調べてもそんなことばかり書いてあるので、僕は「これは落ちたのと同じだな。次がラストチャンスだと思って勉強しよ」と思いました。狂ったように勉強しなおし始め、春募集に関する書類をほとんど捨てました(ヤケ)。そしてさらに働く時間も増やしました(これもヤケ)。
が、登録合格から合格に。
仕事にも慣れてきて職場の人とも仲良くなりました。毎日弁当を作って、仕事行って、帰って勉強して。「この生活がいつまで続くのだろう?」となんとなく不安な気持ちになっていました。その一方で、みんな優しいしもうしばらくここで働くのもアリだなぁなんて考え始めていました。そろそろ秋募集の書類をもらいに行かないと。そんなことを考えていた9月末頃に突然、マラウイからの要請のお話をいただきました。
心臓がバクバクしました。うれしい気持ちと戸惑いが混ざったようなそんな感じ。登録合格から合格になることもちゃんとあるじゃん!
協力隊に受かった時、職場の人たちはとても喜んでくれました。あとほとんどの書類を捨てていたので非常に困りました。登録合格になったみなさん、書類はとっておきましょうね。
振り返るとまじワーキングプア
僕はそこそこ頑張って働いてお金を稼いでいたわけですが、12月に協力隊で必要な自動二輪免許を取るために免許合宿に行って、またお金が無くなりました。奨学金の返済も始まったし、今考えると働けど働けど暮らし向きがよくならん!というワーキングプア状態でした。
でも、ま、いい経験でした。お金問題はまだまだ終わらないですが...。
そして僕は2月25日を最後に前の職場とさようならでした。いろんな人が手紙やプレゼントをくれました。9か月しかいなかった僕にこんなに良くしてくれるなんて。とてもとてもいい職場でした。勉強になることもとても多く、そこで働けたことに感謝しています。どんな状況であっても僕は割と楽しむことができるのが僕の特技だと思っていますが、その特技がうまく発揮された一年だったのかなぁと思います。
受けなければ受からない
協力隊を受験し続けて不安な気持ちになる方も多いかもしれません。たとえ正社員の方であっても、時間がないとかそういった理由で。僕は金銭的には苦しかったけどしがらみはなかったという点でかなり恵まれていたのだろうと思います。
当然ですが受験しなければ受かることはありません。協力隊に限らず、どれだけやりたい気持ちがあっても実際にやってみなければ何も変わることはないのです。
僕のところに「やりたいことがわからない」という相談をされる方がたまにいらっしゃいます。僕もその実「ほんとにこれやりたいんだっけ?」と思うことはあります。「もうやりたいことなんかあきらめて、さっさとどっかに就職して安定したい」と思うことも多いです。やりたいことで安定できるのが一番ですが、一筋縄ではいかないんですよね。
でも、現状を変えたいなら何でもいいから何か新しいことをやってみることかなと思います。とても不思議なことに、情報は自分がアンテナを張ると向こうからやってくるかのように飛び込んできます。自分が敏感になっているから、ということもあるかと思いますが、ふとだれかが教えてくれたり、雑誌の記事の隅に書いてあったり、ネットサーフィンをしていてたまたま見つけたり。
僕はまだ正式に青年海外協力隊の隊員ではなくあくまでも候補生なわけですが、こんな恥ずかしい1年を経て候補生になれました。社会人経験もない、資格も持ってないヘボ新卒です。でも、なれました。登録合格から合格になることなんてそうそうない。でも、なれました。
やってみなきゃわからんもんです。「やってみたいな」と思った日が吉日。どんな人にも、頑張っている姿をどこかで見ていて、応援してくれる人は必ずいます。何かやってみましょう。
素材をお借りしました→https://www.pakutaso.com/