僕が国際協力に興味を持ったワケ:中編

僕が国際協力に興味を持ったワケ:中編

この記事は前編と併せてお読みください。

幼いころからの「なんで?」という疑問と、自分のセクシャリティに対する嫌悪感や劣等感から国際協力の業界で働こうと思った僕。そんな後ろ向きの理由だらけだった目標が、少しずつ肯定的なものへと変わっていきます。

IMGP1078レソトの首都マセル。レソトの成人の4人に1人がHIV感染者で、平均寿命は世界188位の50歳だと言われている。

知ることから始めよう

国際協力に興味を持っても、なぜ国家や地域間で格差があるのか全く知らないわけです。あるのは現代社会の授業で習った知識くらい。それに加えて、選択していた日本史では、近現代史以外ではほとんど世界情勢については勉強しないのです。世界全体の格差や諸問題として、どのような問題があり、なぜそれが解決できず、そして解決するには何が必要なのか知らなければならないと思いました。そこで僕は大学で国際協力について学ぼうと思い、志望校を決めました。

ちなみに、これは大きな間違いであり、すぐにでも国際協力の業界で活躍したいのであれば何かに特化した学科に入学すべきです。教育学部、工学部、医学部、経済学部、などということです。というのも「国際関係学科」というのは国際社会の諸問題について広く浅く学ぶ学科なので、専門性を身に着けることはできないからです。はい、入学してから知りました。

ところがうちの大学の国際協力学の先生は僕が1年生の途中か2年生のころから研究休暇&育児休暇に入ってしまいます。のちのゼミの先生なのですが。そのうえ、国際関係学科で1年生のうちに学ぶのは主に国際関係学の概要であり、多くは先進国政治なので、国際開発や途上国事情はあまり勉強できません。こうなると独学になります。

何のためにこの学校に入ったんだろう…。そんなモヤモヤに加えて「女子大生」として学生生活を送っていた僕に限界が訪れます。「もうこんな生活したくない!」「ってかこんままじゃだめだろ!」と思った僕は自分の将来について真剣に考え始めます。

僕は少しずつ自分を肯定できるようになりました。「こんな風に生まれてしまったからこそできることもあるかもしれない」と考えるようになります。

僕は好きで性同一性障害になったわけではありません。そして僕の努力ではホンモノの男にはなれず、またホンモノの女にもなれないだろうと思いました。途上国で生まれ、勉強したくてもできない人や病気で死んでいく人たちも同じです。好きでそんな場所に生まれたわけじゃない。自分の判断ではなく、社会の構造的な問題によって、努力すらできないような、可能性を封じられた状況にある。

自ら選択したわけではない状況で何もできずに死んでいく。僕はなんとなく、シンパシーを感じました。お前の安い悩みと一緒にするなよ!と言われてしまいそうですが、当時の僕はそう感じずにはいられませんでした。

そして僕は勉強しながら、すべての問題を解決することはできないというめちゃめちゃ当たり前のことに気が付きます。ほかの学部の先生にも進路相談をして、やはり専門分野を決めるべきであると考えるようになりました。

 

専門性を身に着けよう

僕は入学当初、教育に関して力を入れようと考えていました。

一身独立して、一国独立す。

福沢諭吉の言葉です。一人一人が独立しなければ、国として独立することはなおさらできない。僕はこの言葉通り、「脆弱な国家を堅牢にしていくには一人一人の教育の充実が必要。そのためには、教育へのアクセスを確保しなければならない。」と考えていました。

しかし、僕の考えは少しずつ変わります。僕は塾講師としてアルバイトをしていました。個別の指導塾だったので、学校の授業では物足りない生徒から、学校の授業についていけない生徒まで、様々でした。教育の需要には限界がある気がしてきました。

山奥の自給自足の村があるとすれば、そこに教育は必要だろうか?もちろん僕は今でも教育は重要だと思っています。ただ、自分がやりたいこととのズレがあるような気がしたのです。

誰にとっても必要なもの、教育を受けられる大前提となるもの、それは健康なんじゃないか?そう考えるようになりました。

僕がいろいろ勉強しているときに、山本敏晴先生の本に出会います。そこで、ギルバート先生の話を読みました。この話を読んで、僕は公衆衛生に興味を持ちました。ちょっと長いのですが、「公衆衛生」が何なのかも含めてわかりやすく書かれているのでご覧ください。

むかしむかし

アメリカの、片田舎に

とてもとても

おちつきのない男の子が生まれました。
名前を、ギルバートといいます。

彼は、とてもとても 動くものが好きでした。
特に、列車が好きでした。
毎日、列車が走る陸橋にいっては

それと並んでいっしょに走りました。

走りつかれると

その陸橋の柱に、落書きをして遊びました。
学校で習ったことも

陸橋の柱に、書いて覚えました。
走っては書き、走っては書いて

覚えました。
・・・
30歳になっても、彼は落ち着きの無いままでした。
医学部を卒業したかと思うと

すぐに、アフリカにある小さい国、

マラウイに行きました。
マラウイは、とても貧しい国で

半分ぐらいの人が

1日を100円以下で暮らす所でした。
(参考: マラウイは、アフリカの南東にある国です。

開発途上国の中でも、

特に貧しい国の一つで、後発開発途上国と呼ばれています。

1日1ドル以下で暮らす絶対的貧困者の割合が 41.7%。

自分の国の力だけでは、この状態を直せないため

外国への借金が、非常に多い国です。

国の歳入に対する、対外債務支払い割合が 30.5%で

世界で3番目にひどい数字です。

このような国を、重債務貧困国といいます。

HIPCs : Heavily Indebted Poor Countries )

ギルバートは、

おちつきなく、走り回り、

立ち止まっては、医者の仕事をしました。
とにかく、

目に付いた人を

かたっぱしから、助けました。
死にそうな人も

マラリアの人も

肺炎の人も

みんなみんな助けました。
走っては助け、走っては助けました。

ギルバートは

とってもたくさんの人たちから

「ありがとう」

を言われました。
そして、いつしか

マラウイの人たちから、

「英雄」

と呼ばれるようになっていました。

・・・
ギルバートは、40歳になりました。
気がつけば、マラウイは、

来た時よりは、少し、

患者さんの数が減っていました。
その頃、ちょうど、ギルバートは

どうしても

イギリスの、ロンドンの列車が見たくなりました。
どうしても我慢できず

ロンドンに行くことにしました。

ギルバートがロンドンに行く日、

マラウイの人たちは集まって

空港までの道を埋め尽くしました。
数え切れない人たちが

「ありがとう、ありがとう」

言ってくれました。
ギルバートは、泣きながら

マラウイを去っていきました。

ところが、イギリスに行っても

就職先がなかったギルバートは

しかたなく

イギリスの大学に入って勉強することにしました。
朝は列車を眺め、

昼は勉強をし、

夕方は列車を眺め、

夜はまた勉強をしました。
眠ると

列車に乗っている夢を見ました。
でも、

その夢の列車の中で、

ギルバートは、勉強を続けていました。
マラウイの人のことを、思い出しながら。
・・
ギルバートは、50歳になりました。
それまでに、たくさんたくさん勉強をしました。
そうしたら、一つのことに気づきました。

「病気になった患者さんを治すんじゃなくて、

はじめから

みんなが病気にならないようにすればいいんだ。」

「食べものが、腐ってなくて、

水が、綺麗で、
病院が、いつでも、近くにあって、

お医者さんも、看護師さんも、いっぱいいて、
子供はワクチンをうっていて、

妊婦さんは、妊婦検診を受ける。」

「そうなれば、

もう、ほとんどの人が、病気にならなくなる。」

ギルバートは、そうした方法を
「こうしゅうえいせい」と呼ぶことにしました。

この方法を使って

マラウイの人たちを

こんどこそ、

幸せにしようと思い、

ギルバートは、また マラウイに行きました。
ギルバートは、がんばりました。

こうしゅうえいせい を

マラウイに、作ったのです。

「食べものが、腐ってなくて、

水が、綺麗で、
病院が、いつでも、近くにあって、

お医者さんも、看護師さんも、いっぱいいて、
子供はワクチンをうっていて、

妊婦さんは、妊婦検診を受ける。」

こうしゅうえいせいが、できあがった時

もう、マラウイの人たちは

あまり病気にならなくなりました。
マラウイの人たちは

きっと前よりも少し

幸せになりました。

でも、

マラウイの人から

ギルバートは、

「ありがとう」

言ってもらえません。
だって

マラウイの人は

自分たちが病気にならなくなったのが

ギルバートのお陰だとは

しらなかったからです。

でも
それでも

ギルバートは

幸せでした。

ギルバートは

昔、マラウイの人から

「ありがとう」

言ってもらった時の笑顔を思い出して

そして

それだけで満足していました。

・・・

・・・
ところが、

ちょうどその頃、
イラクとアメリカが、戦争を始めました。
いろいろありましたが、最後には

イラクが負け、アメリカが勝ちました。

ギルバートの国、アメリカのほうが、勝ちました。
しかし、

イラクでは、戦争のせいで、

ギルバートの考えていた

「こうしゅうえいせい」

とは、

まったく逆のことが起こってしまいました。

「人々は、腐ったものを食べ

汚い水を飲み
病院がなく

医者がおらず
子供はワクチンを打てず

妊婦さんは、難産で死んでしまいます。」

ギルバートは、

非常に、悲しい想いをしました。
自分の国の戦争のせいで

イラクの国の人が、

そんなめにあうようになったからです。

ギルバートは

イラクに行きました。
・・・
ギルバートは、

イラクで、いろいろ調べました。

「食べもののこと

水のこと
病院のこと

医者のこと
ワクチンのこと

妊婦さんのこと」

そうしたら、

昔、イラクでは

「こうしゅうえいせい」が

あって

みんな元気だったのに
戦争のために

ぜんぶ、ダメになってしまったと

知りました。

そのため
そのため

65万4965人
の人たちが、死んでしまった

と知りました。
自分の祖国が起こした戦争のせいで

人々がたくさん死んだのです。

65万4965人
たぶん

昔、自分が、マラウイで助けた人の数よりも

たくさんの数の人が、

イラクで、死んだのです。
自分の国が起こした戦争のせいで。

悲しくて

くやしくて
くやしくて

悲しくて

彼は、それを 論文にして発表しました。
・・・
この論文は、

アメリカがイラクと戦争をしたせいで

イラクの人たちが

65万4965人

死んだことを、証明するものでした。

世界で一番有名な、医学の雑誌

「ランセット」

に掲載されました。

このため、

アメリカの大統領は、

テレビや新聞から

いろいろ言われました。
アメリカの大統領は

だんだん、力がなくなっていきました。

・・・
ギルバートは

「アメリカ大統領を ギャフンと言わせた男」

として、テレビで有名になりました。
また

イラクの こうしゅうえいせい が

ダメになったために

イラクの人々がたくさん死んでしまったことを証明した

ことでも

とてもとても有名になりました。

ギルバートは、テレビから、ひっぱりだこです。

でも

ギルバートは

複雑な心境でした。

しばらく

ギルバートは

悩んでいました。

でも、

しばらくすると

また、彼は

落ち着き無く、走り出しました。

イラクへ
マラウイへ
アフガニスタンへ

・・・

彼は言います。

「30代で、自分の信じていたことを やってみました。
40代で、30代で自分がやったことが間違っていたのを知りました。
50代で、間違っていたことを 全部やりなおしました。
60代で、これまでのすべての経験をもとに
世界に向かっていこうと思います。」
・・・

ー山本敏晴のブログ おちつきのない男の子 より引用

山本俊晴のブログ おちつきのない男の子

 

障害が武器になる

そして僕が、公衆衛生を学びたい、と思ったのはさらに最後の補足のところを読んだからです。

考えてみて欲しい。

あなたは、今、とりあえず、元気に暮らしてくる(原文ママ)。
多少、病気があったとしても、
とりあえず、このブログを読めるほどは、元気だ。

それが可能なのは、
100年前から、誰かが、
日本で、次のような努力をしていたからだ。

「食べものが、腐ってなくて、
水が、綺麗で、

病院が、いつでも、近くにあって、
お医者さんも、看護師さんも、いっぱいいて、

子供はワクチンをうっていて、
妊婦さんは、妊婦検診を受ける。」

そう。
日本にも、Dr. Gilbert Miracle Burnham さんのような
人たちが、昔、たくさんいたのだ。

直接「ありがとう」と言ってもらえないけれども
それが
多くの人たちを幸せにする最善の方法だと考えて
実行してきた、素晴らしい人たちがいたのだ。

遠い未来の、あなたの笑顔

それだけを夢見て 努力してきた人たち

本当に ありがとう

ー山本敏晴のブログ おちつきのない男の子 より引用

 

僕らがこうやって生きていられるのは、過去のだれかのおかげであり、普段その「だれか」に感謝することはありません。でも、まぎれもなくその「だれか」は存在したのです。

直接感謝されることはないかもしれない。でもそんな仕事が誰かを救っている。今現在にとどまらず、遠い未来の誰かの命も。おい、公衆衛生って超かっこいいな。

そして公衆衛生や感染症対策の分野では、セクシャリティの話が欠かせません。セクシャルマイノリティも性感染症のリスクにさらされることが多いからです。例えば、男性間性交渉者(MSM:Men who have Sex with Men)のグループなどですね。これは僕にピッタリなんじゃないか?そう思うようになりました。僕にとっての障害が武器になる。これはとても心強いことでした。

 

僕は子供を産んで育てることはないでしょう。でも、僕の仕事で病気になっていたかもしれない人が病気にならずに済んだとしたら…そしてその人がまた、誰かの役に立つ仕事をしたら…子供を残したら…

のだめカンタービレという漫画に出てくる、佐久間学という音楽評論家のセリフがあります。

ブラームスにコッセルやヨーゼフがいたように、
歴史に名を残す音楽家には才能だけじゃなく、
人との大切な出会いがあるものさ。
ボクもそういう人間のひとりになりたいんだよ。

僕の名前が残らなくても、僕の遺伝子が残らなくても、だれかに直接「ありがとう」と言われなくても、確かに僕は存在していたことになる。僕は絶対、社会の役立たずなんかで終わらない。

…本当は社会に役立たずなんて一人もいないんですけどね。

だから僕は公衆衛生を学び、国際協力がしたいと思っています。

 

そして僕は自分の目で途上国を見に行こうと思ったのでした。書きたいことが多すぎて、まさかの3部作になってしまいましたが、ここで一応中編を終わります。

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