どもです。「頑張らなくていい」「ありのままの姿で」という言葉がもてはやされ、いわゆる「意識高い系」が小ばかにされる昨今。なんか変な感じがするこのモヤモヤについてまとめてみました。
無気力肯定ビジネスって?
無気力肯定ビジネスは、ライターの小野ほりでいさんの造語です。
古い記事ですが、頭にこびりついて離れない記事。今日はこの記事について僕の思うところを書こうと思います
年末のあわただしさの中必死で仕事をする先輩♀が、この忙しいときに3日連続で休む後輩♀のところに殴り込みに行きます。すると後輩は働きもせず、悟りを開いているのでした。後輩の足元には「もうがんばらなくていい」…「くじけてもいいんだよ」…「無職系女子」…「ニートの生き方」…。そんなタイトルの本がおちています。
後輩は言います。
「富? 名誉? 権力? そんなの支配者が仕組んだラットレース*を都合よく走らされるための幻想に過ぎない…。」
(*ラットレースとは、働いても、働いても、一向に資産が貯まらない状態のことである。働いても、働いても、一向に資産が貯まらない様子が、回し車の中で、クルクル回っているネズミに似ていることから定義されていると、ロバート・キヨサキが自著「金持ち父さん 貧乏父さん」の中で語っている。-Wikipediaより)
「負けてもいいの、くじけてもいいの、お金なんてなくたっていいの。弱さも貧しさも孤独も、すべてありのままの私なんだから…。」
先輩はそんな後輩にチョップをくらわし、目覚めさせます。
「本当に何もがんばらないのは結構つらい」「その人は、全国の書店に並ぶくらい商品価値のある本を書くのに、ちっともがんばってないっていうの?それが「がんばり」じゃないなら、この世で何が「がんばる」に値するの…?」とし、後輩に言い放ちます。
あんたは本を見つけて変わったんじゃない、自分の信じたい都合のいい「救済」を言語化したものを見つけて現実逃避してるだけ!
要は何もしなくてもいい、頑張らなくていいという理由をもっともらしく言語化して居場所を与えることでお金を得るのが無気力肯定ビジネスということになります。
そして最後のナンシーのセリフがこの記事の言わんとしていることをまとめています。
この記事が言いたかったこと…わかる?「つべこべ言わずにがんばれ」的なマッチョ思考?「こんなに労働嫌いな俺も働いてるんだからお前も働け」みたいな同調圧力? 違うわ! この記事が示している真実…それは「人並みに幸せになりたいのに戦略がなく短絡的な行動に出る者は、戦略を行使する者に一生搾取され続ける」ということよ。
と、まとめてみましたが気になる方は記事をきちんと読んでみてください。
本はターゲットにした層に届くとは限らないから…
こうした本、結構見かけますよね。本来のターゲット読者層は一人で頑張りすぎて頑張りすぎてもうどうしようもなくなって追い詰められて精神的にも肉体的にも疲れ果てた人でしょう。そうした人たちの「駆け込み寺」となる本と言えます。追い詰められていた人が、「そんなに頑張らなくていいんだ。もっと自分のペースでもいいんだ」と気持ちを楽にすることができるかもしれません。
しかし、これらの本は頑張っていない人にも、疲れ果てていない人にも書店や広告を通じて届きます。
むしろこうした本は嫌な言い方をすると「頑張らないもっともらしい理由を提供する」という意味では頑張っていない人に需要があるのかもしれません。だから結果的に本来ターゲットにした層とは違う層にも届き、「無気力肯定ビジネス」というレッテルを貼られてしまう事になりました。
でもこれももっともなことです。本を出した人が「無気力搾取」を意図したのかしていないのかは分からないのでそれが副産物なのか意図的に生み出されたものかはわかりません。しかしながら、この「頑張らなくていい」という言葉は本来届けるべき範囲を超えて蔓延している気がします。「頑張るってダサい」という空気を生み出してしまっているのです。
それが「意識高い系」など、頑張っている人までを揶揄する言葉に繋がります。
僕もたまに「この意識高い系のクソが!」と思うことはあります(口悪い)。それは「口先ばっかりで中身や行動が伴っていない人」、変なカタカナ語使ったり、中身のないミーティングや飲み会しかしない自己満足な人達に対してです。本当の意味で高い意識を持って頑張っている人もいます。でもこの言葉のせいで本当に頑張っている人もまとめて「うわwww意識高ぇwwww」と揶揄されてしまい、嫌な気持ちになってしまう。頑張ろうという気持ちがそがれてしまう。
人は何かをしない理由ほど声高に叫ぶ。そうやって意識の低い、何もしない人が意識が高い人を叩きこき下ろす。だってその方が楽だからです。競争の枠の外に出て高みの見物をし、「うわ~頑張ってますね~」なんて言う人よりは「意識高い系」の方が(方向がおかしい場合もあるが)頑張っている分まだマシです。
(そんな僕の意識はたぶんそんなに高くないんですけどね。ごめんなさい。)
それでも僕が頑張れと言う理由
最近「頑張れ」と言うのはあまり良くない、と言うことをよく聞きます。「頑張れ」のニュアンスにもよるのかもしれませんが、そういった言葉が人を追い詰めてしまう事があるようです。僕はそのように考えたことがなかったので、言葉の使い方には気をつけないといけないんだなぁと思いました。「頑張れ」と言われても受け止め方は人それぞれ違いますからね。
しかし僕は本当に応援したい人にはやっぱり「頑張れ」を使ってしまいます。それは今まで僕にその言葉を使ってくれた人が僕のことを考えて言ってくれた言葉だからだと思います。
でも、「がんばらなくていい」なんて無責任なことが言えるのは、基本的に相手が赤の他人だからということを忘れてはいけないわ。
もちろん「無理をしないでね」という気持ちで言ってくれているのかもしれません。しかし、僕は「がんばらなくていい」と言えるのは本当に本当にもうどうしようもないくらい辛いときだろうなと思うので、安易に「頑張らなくていいよ」なんて言いたくないのです。
死ぬほど辛いのその先に
少し話がずれるかもしれませんが僕がなぜ今こんなことを言うのかと言うと、性同一性障害の人たちの中には一定数、私たちはかわいそうな人!と言わんばかりに同情を求め悲観し続ける人がいるからです。
「私たちはマイノリティだからちゃんと気を使ってよね!」みたいな空気をときどき感じるのです。
もちろんみんながみんなそうだとは言いませんよ。あくまで一部です。ほんの一部です。
僕は自分のことを正直に言えなかった高校生や大学1年生の頃には絶対に戻りたくありません。でもそういう日があったから、今がめちゃくちゃ楽しいんだと思うんですよね。
まぁ他人にまでずぶぬれで人にばれないように陰で泣いて耐えろとか言わないのですが、「もう無理死ぬ!」のぎりぎりまでは悩みぬいて頑張ってほしいなと思うのです。あ、本当に死んだらダメだからね!
「居場所」は与えられるものだとは限りません。自分で生み出すために考え、工夫し、時に辛い思いもしないといけないことがある。辛いとか、不安とか、憂いとか。そういったものがなくなればいいという訳ではないと思います。
甘い毒を飲まされるな
この記事を書くだいぶ前、2011年の小野ほりでいさんのツイートにある、「甘い毒」という表現が的を得ています。
小野ほりでいさんが語る日本人の主体性の無さとプライドについて
こういう「やらない産業」の消費者は安定してノーリスクで自己肯定を享受できるかわりに、本当に何もやらなくていいという安息感と、それによって培われる消極性、劣等感を日増しに募らせていって、最終的には何もせず偉そうに他人に文句話つけるだけの肥大した自意識の肉塊みたいな物体に成り下がる。
…
「やらない産業」の製品は甘い毒だ。何もやらなくていい、勇気を出して踏み出さない自分をそのまま肯定して貰える代わりに、一粒飲み込むごとに自分の野心、自信、積極性を麻痺させ、行動を起こすことに対する罪悪感や嫌悪感すら呼び覚ます。自分に都合のいい言葉は、自分の変化を妨げる言葉でもある。
…
最近はほんとに多いですよ、そのままのあなたでいい、生きてるだけで幸せなんだから何もしなくてもいいじゃないか。詩も歌もキャッチコピーもそういうことを言ってあなたを甘やかす。自分に対して肯定的になった分、他人には攻撃的になって、幸福のために努力する人は容赦なく攻撃して足を引っ張る。
この2011年ころの「やらない産業」というのが2014年に「無気力肯定ビジネス」という名前になって記事になったのだろうと思われます。
小野ほりでいさんはたびたび炎上しちゃってますが、僕はこの人の「モヤモヤを非常に適格な言葉にしてくれる」ところがとても好きです。「甘い毒」という表現も「無魅力肯定ビジネス」も、的を得たなんともしっくりくる言葉です。
「泥臭く頑張るのがカッコ悪い」「意識が高いのはダサい」「権利だけを主張すればいい」
そんな風潮になっているからこそ、僕は「頑張れ」と言い続けます。