どもです。久々のLGBT回、というかT回です。真面目回です。
このブログを読んでくださる皆さんは僕が性同一性障害であることはご存知だと思います。今は「性別違和」と呼ぶようになっていますが、なんだかんだで伝わらないので未だに性同一性障害という言葉を使っています。
ここ数年で性同一性障害も含めたLGBTの認知度はかなり上がったように思います。つい3、4年前まではLGBTの話題となると「LGBTってなに?」から入っていたテレビ番組も、今では「LGBT、いわゆる性的少数者の...」というざっくりした説明で本編に入っていくようになりました。我々当事者にとっては良い変化だと思います。と、同時に最近は何となく、その世間での認知とのギャップを感じるようになってきました。
戸籍変更の条件
「もう戸籍の性別は変えたの?」と聞いてくる人もたまにいるのですが、日本では以下の条件を満たさなければ戸籍の変更はできません。
1.20歳以上であること
2.現に婚姻をしていないこと
3.現に未成年の子がいないこと
4.生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること
5.その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること
性別適合手術を行い生殖腺がない状態にした上で、身体的な見た目の性別も希望の性にしなければ戸籍は変えらないわけですね。わかりやすく言うならば、僕(女→男)の場合、子宮卵巣がない上に男性器的な見た目のものが必要だということです。とは言っても、男性ホルモンを打ってクリトリスが肥大化してそれが男性器と認められるので、大体は乳房切除と子宮卵巣の摘出手術を行えば戸籍の変更は可能だ、ということになります。
ここまでのことをご存知の非当事者の方はよほど勉強熱心か、僕に相当調教された方だと思います。
当事者にとっては当たり前でも
「結婚の為に生殖器を切れますか?」性同一性障害の性別変更の条件に言葉を失う
1年ほど前の記事です。この記事やこれに纏わる記事をご覧になった方もいらっしゃるかと思います。
なんと、戸籍上の性別の変更には生殖器を取り除かなければいけないのだそうです。これは、当事者でなければ知る可能性の低い情報ではないでしょうか。
生殖器を切らなければ、戸籍の変更は出来ないとしているのに、切るための手術は保険適用外…。障害として認めているのに、保険が利かないというのはたしかに矛盾していますね。
戸籍上の性別を変更するため“だけ”に、本意ではない手術をしている人がたくさんいるのです。
生殖器の切断を強いられる…どれほどの苦しみや覚悟が必要なのか、想像もつきません。
上記の記事を書いたライターさんの所感を引用させていただきました。正直なところ、僕が驚いたのは、当事者が当たり前のように知っていることでも世間には認知されていないということです。このライターさんのような反応が普通だということですね。
僕も法律に飼いならされていた
現在パートナーがいるわけではありませんが、もし、万が一、天地がひっくり返るような、太陽が西から昇るようなことがあって僕にパートナーができたとしたら、手術をして戸籍を変えて籍を入れるんだろうな、と思っていました。
でも僕自身は手術をしたいわけではありません。乳房切除、いわゆる胸オペはしたいと思っています。そして海に行って堂々と上半身裸で遊んでみたいです。こそこそしないで温泉に行きたいです。家族は手術に反対していますが、僕のことだからどうせいつかやるのでしょうね。でも、子宮や卵巣を取って男性器を付けようとまでは思いません。だってそんなところよほど親しい人しか見ませんし、僕はそんなところに金は払いたくない。もっと違うところに投資したい。
手術を否定するわけではありません。しかし健康上のリスクもありますし、生殖器を取ったら自分でホルモンを作れないので、一生ホルモン注射を打ち続けなければなりません。それって、僕にとってはもはや健康な体とは言えない。僕には夢や目標があります。だからこそ健康な体を保ってきちんと自分のしたいことを成し遂げたいのです。ところが、そんな風に考える僕もパートナーができたら戸籍の変更もするだろうと思っていたのです。僕はルールに違和感を覚えるより前にそれで納得していたんですよね。
「同性婚を認めろー!」と旗を振りながら自分からデモを起こすつもりはないですし、こう生まれたことへの引け目は一生ぬぐえないと思うので、ある程度権利が制限されているのは仕方のないことだと思っています。権利を認めてほしい気持ちと、トランスジェンダーであることの引け目の間で揺れているのです。しかしながら、「生殖器を切れば、好きな人と一緒にいる権利を国がくれるって言ったら、皆さんは自分の生殖器を切りますか?」という文章を読んで、客観的に見たら結構おかしなことを強いられているのかもしれない、と思うようになりました。
世間の認知とのギャップ
「性同一性障害の人も、今は手術して戸籍を変えられるからラッキーだよね」
性同一性障害の認知度が上がり、性別適合手術の件数増加するに伴いそんなことがまことしやかに言われているような気がしてなりません。このブログでも何度も言っていますが「手術はよりよく生きるための手段であり、目的ではない」のです。それが自分にとって必要かどうかは自分で決めればいい。でもこうやって「性同一性障害=手術して戸籍ゲットすれば幸せ」という認識が広がっていくと、「どうして手術しないの?」とか、「手術すればいいじゃん!全部解決じゃん!」なんて雰囲気になりかねないと思うんですね。
その実、手術をしたって本物の男にも本物の女にもなれない。限りなくそれに近い何かにはなれるのかもしれないけど。戸籍は手に入る。でも親しくもないどこかの誰かに「男だ」って認めさせるために、自分たちが夫婦だって認めさせるために、戸籍を手に入れるのか?体にメスを入れて本来必要なはずのものを切るわけだから、100%安全という保障があるわけでもない。問題は単純なようで複雑です。それでいい人もいれば、良くない人もいる。メスを入れてまで男の戸籍を手に入れるのが男気だと言う当事者がいるのなら、そんなものは男気じゃないと僕は言いたい。
これまで当事者に対して「手術はよりよく生きるための手段であり、目的ではない」と声を大にして言ってきました。しかし最近は同じことを非当事者にも言っていかなければならないのかもしれない、と感じています。
僕のようにある程度割り切れている当事者もいる。でもそうじゃない人もいるし、僕の中にもまだまだ未解決の部分がある。だから当事者でない方にも安易に「性同一性障害=性別適合手術」と考えないでほしい。そんな風に思います。