祖母の命日の話

今日はバイトの帰りに納骨堂参りに行ってきました。8月21日は祖母の命日です。


祖母が亡くなってからもう14年が経ちました。祖母の死は小学5年生だった僕にとっては初めての身近な人の死でした。

脳梗塞で倒れて一週間。この前まであんなに元気だったのに、病室で見た祖母は治療で顔がパンパンに膨れて黄色がかっていました。病院の機械が放つ「ピッピッピ」という音は、生命活動に伴って出ているはずなのになぜか無機質で、何につながれているのか、管だらけの祖母の姿と、親族の暗い顔に頭が付いていかず、僕と弟は泣きました。

倒れる前、お盆に祖母の家に集まって一緒に夕飯を食べて、母と伯母と祖母が3人で数枚の祖母の写真を広げながら「遺影にするならどの写真?」なんて冗談交じりで言い合っていました。そして無情なほどの冗談抜きで、そのとき祖母が指定した写真が約一週間後には本当に遺影になっていたのでした。

祖母が死んだ後も、たくさん泣きました。悲しくて、悲しくて。入れ歯を出して僕をびっくりさせては笑っていたおばあちゃんは、もういない。あんなに優しかったのに、笑顔がかわいらしかったのに、ご飯がおいしくて裁縫も上手だったのに。まだ何もしてあげていないのに。

何も、してあげていない…。僕はふと、祖母の口癖を思い出しました。

「こうちゃんの花嫁さん姿を見るまでは元気でおらんならねぇ。」

そして僕は思いました。

「おばあちゃんは死んじゃった。これで花嫁さんになる理由が一つ減ったんだ。」

急に、肩の荷が軽くなったように感じました。

僕が自分を初めて「僕」と呼んだとき、困ったように笑っていたのは祖母でした。その困ったような笑顔を見て僕は、男になりたいだなんて言えなくなりました。4歳だか、そのくらいの頃。

祖母が大事なのに、大事だから、自分が思ったことを言えなくなった。「こうちゃんの花嫁さん姿」の話をされるたびに、はにかみ笑いで事情がよく分かっていないフリをして過ごしていました。本当は自分が何を望まれているのか、自分にはそれをできる自信がないことも含めて、わかっていたのに。

自分にとって本当に本当に大事な人が死んだ。それなのに、一瞬でも安堵感を覚えた自分が疎ましく思えた。当時はその言葉を知らなかったけど、そう感じていました。その辺りから、もう祖母の死に対して泣かなくなりました。


9月になりました。新学期です。

始業式の日、僕は放課後教室に残るように担任の先生に言われました。先生はたぶんその時、ちょうど今の僕と同じ24歳だったはずです。祖母が亡くなったことは先生にも伝わっていて、悲しいことを思い出した時は無理をしなくていい、というような話をされました。

或いはそんな言い方ではなかったのかもしれないけど。

でも少なくとも、祖母にまつわる話をあの日の放課後にされて、教室は2人以外には誰もいなくて、電気は消えていたけど、まだ明るく、外は青空で、風がカーテンを持ち上げているのを見ながら、いつもよりぎこちない先生の話を聞いて、「ああ、この人は今、自分を励ましてくれようとしているんだなぁ」とぼんやり考えていたのは覚えています。

少しだけ、泣きそうになりました。でも、祖母の死で少しでも安堵感を覚えてしまった自分には泣く資格もないように思えました。


人が死ぬってきっと悲しい話だ。自分だって、悲しかった。確かに悲しくて、9月になってもまだ悲しくて、もう泣きはしないけど、死んだあとのことや、生まれるまえのことを考えている。おばあちゃんにまた会えるんじゃないかと思っている。そんなことは絶対、ありえないのだけど。それなのにほっとした自分は、一体何なのだろう。

一か月ほど経ってお彼岸の時期になった。赤い彼岸花が咲いている。

「彼岸花って、本当にちゃんとお彼岸の頃に咲くから、不思議だよね」

伯母が何気なく言った。そのセリフはなぜか僕の頭にこびりついたように残っている。

そして49日が過ぎた。おばあちゃんの魂はどこかに行ったらしい。何かに生まれ変わるらしい。本当だろうか?49日が過ぎても、自分のことを見ているのだろうか?やはり花嫁さんにならなければ、おばあちゃんはがっかりするのだろうか?そもそも生まれ変わったら、もうそんなこと忘れて「おばあちゃん」自体は消えてしまうのだろうか?

「その人がなぜ死んだのか。そう聞くと大抵の人は「癌で…」とか、「交通事故に遭いまして…」と答えます。しかしそれは答えにはなっていない。人が死ぬ理由は病気でも、事故でもないのです。この世に生まれてきたから死ぬのです」

お坊さんの話も、こびりついて離れない。

彼岸花がちゃんとお彼岸の時期に咲く奇跡。

ほんの数滴の夕立の中の一粒がちょうど唇の先に落ちる奇跡。

僕が生まれた奇跡は僕が死ぬ奇跡につながっていて、祖母が死んだのは、祖母が生まれた奇跡があったから。

おばあちゃんは、「ノーコーソク」で首の中の一番太い血管が詰まったから死んだわけじゃない。生まれてきたから死んだのだ。

小学5年生の僕の頭の中は、彼岸花の赤と、人の死の話でいっぱいだった。


14年が経ち、僕はあの頃の先生と同じ24歳です。誰もいない納骨堂を、茶色のスリッパで進みます。

「ごめん、手ぶらで来ちゃったよ」

そう思いながら手を合わせました。

もし、今祖母が生きていたら、男として生きようとする僕を応援してくれたのだろうか?青年海外協力隊に受かったことをほめてくれただろうか?「花嫁さん姿」が見られないことを、悲しんだのだろうか。

…。

やめよう。祖母はもうこの世にはいないのだから。

僕は祖母に対して今の自分を恥じてはいないし、隠すつもりもありません。堂々としていたいと思います。祖母が今の僕を応援していようが、応援していなかろうが、僕は祖母が大好きで、自分の生き方を変えるつもりもない。

ただ、できれば応援していてほしいし、応援してくれていると勝手に思っています。そして僕がレザークラフトが好きなのは、祖母の裁縫の血だと思っています。人は不確かな何かを非常に恣意的な形で自分の中に収めようとする。少なくとも、僕はそうです。

そんなことを考えた納骨堂参りでした。

 

 

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