無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり

どもです。早いもので、もう9月になりました。今日はcakesの、@May_Roma (めいろま)さんの記事を読んで考えたことのまとめです。

エリートじゃない僕がエリートを案じてみる

今回読んだのはこの『貧困女子高校生問題から考える日本のエリートにかけているもの』 という記事です。本日2016年9月1日から一週間くらいは無料で記事全文が読めるはずなので、このブログを読んでくださっている「大人」のあなたはぜひご一読ください。

(以下引用部分特に記載がない限りは貧困女子高校生問題から考える日本のエリートにかけているものからの引用です。太字部分は僕が太字にしています。)

先日NHKのニュース内 で、「子どもの貧困」と特集したコーナーに貧困に悩む女子高生が実名で登場した件が大炎上した上に延焼しています。

この女子高生さんは、子供の貧困問題を議論する会合でスピーチをするなど、しっかりした人です。しかし、放送中に写った自宅に物がたくさんあったり、ツイッターで普段の生活をツイートした所、漫画本を買っていたり、コンサートにいっていたことがわかり、ネット民から「本当は貧乏じゃないんじゃないの?」と責められて、個人情報を晒されるなどの嫌がらせにあっています。その上国会議員の片山さつき氏までしゃしゃり出てきて、NHKに「あの子貧乏なの??」と質問するという状況になっています

記事ではこのことを発端に日本のエリートに「ノブレス・オブリージュ」への意識が欠けていること、「エンパシー」がないことを指摘しています。

ノブレス・オブリージュというのは「高貴なるものに伴う義務」のことです。

さらに不思議なのは「やんごとなき階層」出身の片山氏には、ノブレス・オブリージュ的なものがまったくないことです。通常、こういう階層の人達というのは、幼少の頃から「やんごとなき人」のシツケを受けています。

運良く金持ちに生まれ、コネや機会に恵まれたのだから、義務を果たしましょう、立派な人になりましょう、我慢しましょう、社会に奉仕しましょう、というシツケです。

さて、この「たまたま」に関しては過去に似たような記事を書いています。エリートか非エリートかの話ではないのですが、近いものを感じました。

過去記事:僕が殺人犯にならなかったのは―小金井市刺傷事件を見て思ったこと

僕はその惨めさを人殺しという形でぶつけることはしません。でも、たまたまそうしなかっただけ。そしてたまたま、これからもそうする気がないだけ。それは僕がマトモだからじゃなくて、強い人間だからじゃなくて、僕の思考回路がたまたま他人に矛先を向けようとしないだけ。たまたまそんな環境で育ってきただけ。たまたま友達に恵まれていただけ。たまたまそんなことする傲慢さも勇気も覚悟持ち合わせていないだけ。たまたま、失いたくないものが多いだけ。たまたまそれをしないだけの自尊心を持ち合わせていただけ。

僕が殺人犯にならなかったのは、僕が優れているからでも劣っていないからでも、思いやりがあるからでもない。

たまたまそんなふうに、育ててもらえただけ。

―過去記事より引用

結局僕らは自分とかけ離れたところにいるように思える人間、それがエリートから見る貧困層だろうが殺人犯だろうが、そういった「遠くにいる」人と自分との間に線引きをして、無遠慮に当たり前を押し付け、自分が今ある立場がさも自分の力だけで得たものかのような顔をして過ごそうとします。もしくは何かを思ってもそれを主張しない。

そもそも日本ではこうやって自分の意見をいう人はほとんどおりません。若い人だけではなくオトナだって言いたいことを言わない。なぜならエエカッコシイだからです

思ってはいても、反論されたり突っ込まれたり目立つのが怖いので、発言しないチキン野郎の集まりが日本人です。

そして後になってグチャグチャ不平不満を居酒屋でぶち撒けて、ネットに匿名で書き込みするのです。

こんなWanker(意味はご自分でお調べ下さい)だから、 ロシアのセクシー美女と付き合うには、札束で顔をはたくしかないのです。世界でモテるには 、俺は俺だと言える人間でなければダメです。チキン野郎は子供扱いされて終了です。

ちなみにWankerはマス掻き野郎、つまりクソ野郎ということですね(マス掻き野郎がわからない人はご自分でお調べください)。僕はマス掻き野郎なんかで終わりたくないです

そしてエンパシーに関して。これは「共感」ということですが、エリートがこの共感力に欠けていることも指摘しています。イギリスの私立学校ではこのエンパシーを鍛えるために詰め込み教育をやるのではなく、僻地での冒険、登山、植林、スポーツ、文学、詩、演劇、慰問、ボランティアなどに力を入れているのだそうです。

「エンパシー」は計算問題や、穴埋め問題をやることでは絶対に身につきません。木を植えるために辛抱強く荒れ地を耕すこと、近隣の人や同級生と協力して塀を建てることで身につくのです。「やんごとなき人」はガリ勉では務まらないのです。

例えば、日本である程度経済力があって私立の中高一貫校に入学、もっと言えば小学校から私立やエスカレーター式の学校に通った場合、かなり偏ったタイプ人しか身の回りにいない環境で育つことになります。

僕は小中公立の学校だったのですが、お金があるんだろうなという子もいれば、そうでない子もいました。いつもきれいな制服の子もいれば、いつもなんとなくボロボロな格好の子もいた。

ところが高校に入学するとある程度同じような層の塊になります。一応進学校とはいえ公立だったので経済力のばらつきはあったかもしれませんが、塾に通っているという子が多かったので割と裕福な家の子が多かったのかもしれません。

これが高校だからまだ良かったのかもしれませんが、上記のように小学生の頃から自分の身の回りに多様性がないと、自分と同じような人たちしかいないように感じながら大人になってしまいます。仮に知識として知っていてもそこにはリアリティがなく、片山氏の「あの子貧乏なの??」のような発言につながってしまうのかもしれません。

僕の身近にもそういうおじさんがいるのです。「日本に本当の意味で貧困な人なんていない」と堂々と言っちゃうおじさまが。誰とは言いませんしとても言えませんが、僕はドン引きしました。ああ、この人何も分かっちゃいないなと。そうやって貧困は見えなくなっていく。あるのに見えない、透明な存在になっていく。

僕の「社会的責任」

僕も奨学金を借りたとはいえ、親の金で大学を出ている身ですから、社会に対してそれなりの責任があります。ところが大学に通う多くの人にとっては、大学に通えるのが当たりなのです。特に責任なんか感じていないかもしれません。

でも、僕が社会に対して何か恩を返していこうという発想に至ることができたのは、決して僕が素晴らしいからなんて理由ではないのです。少期から周囲の大人に「人や社会の役に立つ人間になりなさい」と言われて育ったからなのでしょう。それらの『環境』を作るのはこの文章で言われている官僚や上流階級にとどまらず、多かれ少なかれ「たまたま心身ともに健康で働く環境にいることができる全ての大人」なのだと思います。

IMGP1093

僕は「必然」という考え方が好きではありません。その言葉の奥に幾ばくかの傲慢さを感じるからです。全てはたまたま起こったことであり、感謝しないといけない。

自分が得たものの大半は自力で得たものではないこと、そして自分とはかけ離れた世界にいるように見える人のことを慮ること、これらに必要なのは想像力です。

客観とは結局何かに成り代わった主観でしかありえない。だけれども、本当に自分の立ち位置でじっと立ってしか物事を見られないことが許されるのは子供だけなのです。知らなかった、学校で習ってない、そんな言い訳は通用しないのです。

無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり

実践的な知識を身に着け、行動に移す大人でありたいものです。

 

最新情報をチェックしよう!