性同一性障害は「障害」か否か問題について―GIDと感動ポルノ

性同一性障害は「障害」か否か問題について―GIDと感動ポルノ

どもです。今日はずっと僕が書きたかった記事を書きます。タイトルの通り性同一性障害は「障害」か否か問題についてです。

※障害か障がいか障碍かでいつも悩むのですが、障害に統一します。

11046513_483818161766995_1350736776424357256_nこれはひどい

結論から言うと

結論から言えば、僕は今の日本の社会において性同一性障害は障害だと思っています。性同一性障害は「個性だ」と言う人もいますが、少なくとも今の日本の社会において、性同一性障害は「個性」とは言えないでしょう。当事者の僕がなぜそう思うのか、以下でさくさくっ述べていきます。

障害とは?

そもそも障害とは何でしょうか?医学における障害は日本語では「障害」のひとくくりですが、英語ではいくつかの言葉に分かれています。

なんらかの障碍によって発生するダメージやトラブル、問題が生じたという意味。また、支障をきたしている状態も指す。医学的には、生理的な機能障害のimpairmentと、その結果ものごとを遂行するための能力障害disabilityが日本語では区別されておらず、また精神障害では、変調を意味するdisorderに障害の語があてられる。社会福祉のモデルとしては、社会的な制約を取り払うためにdisabilityに焦点を当てた政策が考えられる。

Wikipedia「障害」より引用

性同一性障害はGender Identity Disorder。GIDと略されることもありますね。上の解説で考えると精神障害に当たります。

以前パス度の記事でも書いたのですが、僕のとらえ方では、性同一性障害は自分の性別に異常なほどのこだわりがあるという精神障害だと思っています。

過去記事:なぜトランスジェンダーはパス度にこだわらないといけないのか?それは社会が変わるのを待ってるヒマがないから

「普通」になんとなく当てはまらないのが障害

そもそも障害自体が非常にあいまいな言葉だと言えます。英語では少なくとも三つに分かれているのに、日本語では一緒くたにされているくらいですから。

考えてみてください。今、僕には目が二つあり、視力は悪いものの色別もできるので、コンタクトや眼鏡をつければ十分に生活ができます。

しかし仮に世の中の大半の人は目が三つあるのがスタンダードだとしましょう。

目が二つしかない僕の「異様」な姿に町ゆく人々はぞっとするかもしれません。本来三番目の目があるはずの眉間をじぃっと見たり、三つの目を急いでそらし、僕の姿が映らないように努めるかもしれません。

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目が二つでごめんなさい。

三つの目がある「普通」の人たちは、目を閉じていても景色をとらえることができ、寝ている間にも映像を知覚でき、視覚以外にも人の考えていることがある程度読める能力があります。真後ろの景色も見えているかもしれません。

それができない僕は深夜に放送される「第三の目で楽しむテレビ」が見れないくらいのことならまだしも、相手が何を考えているかわからないので全くいらない誕生日プレゼントを買ってあげてしまう、と言ったような「常識外れ」なことをしでかしてしまうかもしれません。

後ろから来たトラックに気が付かずに轢かれても「ドライバーにも問題はあるが、見ていなかったのが悪い」となってしまうかもしれない。

その世の中では今の僕は視覚障害者に当たるのでしょう。

そのように、世の中の大多数の人が持つ能力や姿かたち、心の状態を持っていないことを「障害」と言うのならば、世の中の変化、または人間の進化や退化によって障害は障害ではなくなると言えます

性同一性障害に話を戻します。

自分の心の性と身体の性が一致していないことがあまり珍しいことではなく、社会もそういった人間の存在を想定して法や設備が整っているのなら、それはもはや障害ではないのでしょう。

昔は同性愛者も精神障害の枠に入っていました。今は入っていませんが、今でも同性愛者そのように認識している人は少なくないと思います。

性同一性障害が障害か否か議論がたびたび起こるのは、それを「そういう人もいる」と認めようとする肯定的な動きの一端なのでしょう。

ただ、以前も使った言葉を使って言うのならその理想に世の中が追いついていないのが現実、なのでしょうね。少しずつ追いつこうとしているようにも思えます。でも個性と呼んで前向きになれるほどには僕らは社会的に認められていないだろうし、他でもない僕らがそれらを「個性」だなんて思えないのが現状です。

更に法的なことについていえば、僕は生殖腺を取り除かない限りは戸籍上の男性にはなれない=結婚できない、父親になれない。そのことも僕が日本の社会において性同一性障害は障害だと言う理由です。僕は既に精神科医2名から診断書をもらっているので、国によっては男性の戸籍を手に入れることも可能です。

僕は頑張っている偉い人?

僕が気になるのは「性同一性障害だ」という話をしたときに未だに「そうだったんだ、つらいこともあったよね。でも立派に生活してて偉いね」的なことを言われることです。しかも、割と知り合ったばかりの人にです。

この際僕が今ほぼニートであり全く立派ではないことはおいておくとして、例えばそれが僕の女子高校生時代を知っている人や過去の経験を話したうえで言われたのなら、まだわかります。でも「性同一性障害で生まれは女性だけど今は男性として生活している」ことが分かった途端に、同情を露呈し、明るく生きていることを賞賛されるのはなぜでしょうか?

僕はただ僕の「わがまま」で男性として生活しているだけかもしれないのに、セクシャリティだけで「つらかった学生時代」を想起させてしまう不思議。あながち間違いでもないのですが、高校時代もそれなりに、というかかなり楽しんでいた僕としてはどうも違和感を覚えます。

その違和感は感動ポルノに近い

感動ポルノ、なんて言葉も話題になりましたね。僕も24時間テレビは大嫌いです。僕が感動ポルノという単語を知ったのは、昔ステラ・ヤングさんのTEDを見た時。

数年後、私はメルボルン高校で2年目の教師生活を迎えていました。

法律に関する11年生向けの授業で、20分くらい経った頃でしょうか。1人の男子生徒が手を挙げて、私に尋ねました。

「先生、いつになったら講演を始めるんですか?」

「何の講演?」と私は訊き返しました。名誉毀損について、20分ほど説明してきた後のことです。生徒は言いました。

「何か、感動するようなスピーチですよ。車椅子の人が学校に来たら、ふつうは人を感動させるような話をするものでしょう? たいてい大きな講堂でだけど」

(会場笑)

それが、私が自分の置かれている状況に気付き始めたきっかけでした。その生徒が今まで出会った障害者はみな、「感動的な話をする人」という存在だったのです。私たちはそうではありません。

障害者は「感動ポルノ」として健常者に消費される–難病を患うコメディアンが語った、”本当の障害”とは より引用

この動画を見ていただくと(英語がわからない方は上のリンクの翻訳を読んでいただくと)なぜ僕が声を大にして24時間テレビが嫌いだ、と言うのかお分かりいただけると思います。

僕は身体的には障害者ではないので性同一性障害の話に戻しますが、性アイデンティティーなどのセクシャリティの揺らぎを持つことが「特別扱い」されているうちは、僕たちは障害者なのかもしれません。

だから僕は会社などのある一定組織内でのアライ表示に気持ち悪さを覚えるし、「ゲイの人ってセンスあるし、友達になりた~い」とか言ってる女に対しては思いっきり膝カックンをしたいくらいイラつきます。センス0のゲイもおるわ!

 

頑張っている当事者もいれば頑張っていない当事者もいる。それは「普通」の人と同じです。僕みたいに性格がまじWINDING ROADな当事者もいるわけですよ。

これだけテレビでLGBTが騒がれていても、僕が大学や専門学校で学生相手に話すたびに「初めてテレビ以外でそういう人を見た」と言われているうちは、あくまで僕らは「テレビの向こう側」の存在です。そしてそのメディアに出てくるのは普通の当事者ではなく何かを頑張っている当事者が多いので、なんとなく「性同一性障害の人=昔はつらかったけど今は目標をもって周りにも認められて頑張っている」という構図が出来上がります。身体的障害を持つ人にも似たようなことが言えるでしょう。

私は、障害が例外としてではなく、ふつうのこととして扱われる世界で生きていきたいと望んでいます。部屋で『吸血ハンター 聖少女バフィー』を見ている15歳の女の子が、ただ座っているだけで何かを達成したと思われることのない世界に生きたいです。

僕が身体的な障害を持つ人の障害についてとやかく言うのは、それはもうクソみたいな偽善者にしかなりえないので何も言いません。動画や上記の記事でステラさんの言葉を受け止めてもらうのが一番でしょう。

ただ僕が性同一性障害者の立場で言えることがあるのなら、Facebookのアイコンを虹色にしたり、よく分からないままアライの目印をデスクにおいてもあまり世の中は変わらないのだということです。

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おわり。

画像:2枚目 ドラゴンボールより

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