equalityとequityを考える―平等な支援と公正な支援

国際協力を机上で学んでいても、実際現場に入ってみても、それ以外の日々の暮らしでも、「平等ってなんだ?」は誰もが一度は考えることだと思います。

患者全員にお金をあげれば平等で、正しいことなのか。物乞いにお金をあげるのが正しいのか、同情からものを買うのが悪いことなのか。今回は日々の生活と、貧困スクリーニングから考えた平等と公正の話です。

支給額の基準作り

LINEスタンプやスティグマを減らそうポスターの他に、引き続き貧困スクリーニングと交通費生活費支給の基準作りに苦戦しています。

僕は月曜日と水曜日は結核クリニックに行って、貧困患者への交通費生活費支給の手伝いをしています。患者さんに家計状況や、近隣住民との関係、交通手段等を質問して、限られた予算から適切な額を支給するのが僕の仕事です。

その際の基準は僕も必要だと思うし、CPやJさんの要望でもあります。

苦戦している、というのも主に病院勤務のスタッフはこの基準作りに乗り気ではないからです。

「基準はない。その患者さんと話して決める。患者さん次第だよ」

患者さん次第ならまだしも最近じゃ「あなた次第だよ」だ。それは違うだろ。

確かに患者さんが話す家計状況や支援者の有無、病院までの交通手段とその際にかかる費用などの数値化できるものだけではなく、患者さんの顔色、話し方、表情などからも暮らし向きを感じることはできます。それらを「基準」として規格化するのは大変難しい。

しかしながら、正確には基準が全くないはずがありません。明文化されてはいなくても、どの患者さんにも大体交通費が100~300、生活費も同じくらいのレンジで支給されています。ということは彼女たちの中に「なんとなーく」の基準があるから一定の支給額に落ち着いているはずなのです。

最近分かってきましたが、CPはあまり今の貧困スクリーニングの現場のことを把握していないようです。フローチャートを作ったり、貧困患者用に渡しているカードの項目の改善の話をしたりしているうちにそれが分かりました。うーん、なおさら難しいなぁ。

今は僕ともう一人だけでスクリーニングをしています。でももし新しい人が来たら、大体の支給額についてなにか基準がないと説明するのが難しいと思うのです。

この前まで僕もたまに「これじゃ少ないよ!」なんて怒られてました(慈善事業担当じゃない別の人にだけど)。だから怒るくらいならそれなりの基準を作らせてくれよ、と思ってしまったわけですが。そんなわけで感覚が分からないので質問の回答と実際の支給額を照らし合わせながら、「なんでこの人には200でこの人には100なの?」といちいち聞いていくしかありません。

しかし最近は
「この人は200あげたよ」
「うん、私もこの人なら200だわー」
てな具合に、彼女との答え合わせでの回答がマッチしてきました。まぁだから放置されているんでしょうね。

うむ、今なら明文化できる気がする。現場でめんどくせぇ日本人だなって思われたってやったろうじゃないか。

equalityとequity

もちろん支給すると言っても大金ではありません。交通費200と生活費100って、日本円で1000円くらいの援助です。それでも支援できる額には限りがある。

大学院生のテッサが最初のプレゼンでこんな画像を紹介してくれました。

Illustrating Equality VS Equityより引用

日本語に当てはめるなら、平等と公正の違いでしょう。

僕たちはできるだけ、公正な支援を目指さないといけない。同じお金がない人でも、食べ物は持っているという人もいれば食べ物すら持ってないない人もいる。身寄りのない人もいる。貧困患者全員に300バーツをあげるのは平等であっても公正じゃない。

昨日は1人、支援を断りました。彼に話を聞くと彼は既に仕事があってバイクも所有していました。庭師として働いているようで、顔色も良くはきはきと話し、結核の治療中であること以外は順調そうに見えました。字も書けます。

前回の聞き込みは僕ではなかったので、それ以降に暮らし向きが良かくなったのか、もともとこの人にも「平等に」支援をしていたのかはわかりかねますが、近くにいた他のスタッフにも「この人にはもうあげなくてもいいよね?」と相談してお断りをしました。

主に同僚が説明をしてくれました。「この支援は仕事をしてない人とか、もっと他の困っている人にも援助をしないといけないから、今回はあなたには支援をすることができません。いいでしょうか?」という感じ。彼女の物腰の柔らかい説明はとても上手でした。患者さん側も快くOKしてくれました。

あまり困っていない彼に渡すこともできる100バーツを、山奥から時間をかけてやってくる仕事も身寄りもない患者に渡すのが公正な支援だと思います。

そして限りある資金をより公正に支給するためには基準を設ける必要があると僕は感じています。

花を売る女の子

そりゃお金があるなら患者さんにもたくさんあげたいです。僕がポケットマネーを出すことが許されるなら出してもいい。でもそれは「仕事」とは言えない。『受けるよりは与える方が幸いである』。そして考え頭を悩ませるよりも与える方がよっぽど手っ取り早い。

外で食事をしていると、おかっぱ頭の小さな女の子が花を売ろうとして来る。僕は花を必要としていない。でも彼女にお金をあげてもいいと思う。人と一緒だと無視しろよってオーラを感じてしまうからそれに従うけど。僕が今日お金をあげてもあげなくても、きっと明日も彼女は花を売る。毎晩花を売る。

20バーツのお花代は、彼女の明日を劇的に変えたりはしない。だけど…。あれを(いらないのに)買うのがそんなに悪いことなんだろうか、と最近は思ってしまいます。

デング熱でバムルンラードで入院してた身分でこんなこと言えたもんじゃねぇよって気もしますが、それはそれで考えましょう。体調崩して罪悪感を感じるって何なんだろね。

少なくとも仕事に関しては、やった方が良いしやるべきなんだろうけど忙しくて手が回んないっていうかめんどくさい、とタイ人が思っているところに僕の仕事はあるんだろうなと半年たって分かってきました。

物乞いとか子供は…僕はどうしても何かできるんじゃないかって思ったり、何もできないってあきらめたり、彼らを見ると気持ちが浮き沈みして慣れません。日本にいる頃からそれはそうですけども。子供だなぁ。

そんな感じです。おわり。

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