勝ち組と負け組にこだわると脆くなる

どもです。先月中間報告があって、僕が気になったのは「勝ち負け」の話。
最近この勝ち負けについて考えています。

勝ち組と負け組

よく勝ち組負け組なんて言葉を聞きます。

勝ち組負け組って何が基準なのでしょうか?勿論協力隊の活動自体に勝ち負けはありませんが、なんとなく、あの人はうまくいってるなとか、この人よりは順調に活動できてるかも、という感情は隊員同士少なからずあるのかもしれません。ただそれはあるにしても、だから勝ち、だから負けということにはならないでしょう。

そしてもっと長期で考えた時の、いわゆる人生の勝ち組か負け組かと言う話になると、どうやらもっと大変そうです。

男ならイケメン高身長高学歴で年収は軽く1000万以上、女にモテまくり、最終的には結婚して愛するパートナーと子供をもうけ、自分のキャリアアップも怠らない。社会的知名度もそこそこにあったり、スポーツや音楽で頭角をあらわしていたり、大きな会社内での重要なポストについていたり。

またはそんな男性といち早く結婚して専業主婦となる女性もある意味勝ちでしょうし、そんな男性を捕まえた上で自分もキャリアアップしていく女性も勝ちかもしれません。
最も、女性の勝ち負けは男とは違って殆ど美醜で決まってしまうという価値観今の世の中にあるのも否めませんが…。

 

それに飽き足らず今度は他人と比べて勝ち組にいるか負け組にいるか確認しようとする

そんな世界で勝ち組になろうとしたら、それはそれは大変でしょう。

 

太宰治の「美男子と煙草」にこんな一節があります。

ああ、生きて行くという事は、いやな事だ。殊にも、男は、つらくて、哀しいものだ。とにかく、何でもたたかって、そうして、勝たなければならぬのですから。

太宰治の「美男子と煙草」より引用

毎日が戦いの連続、とにかく、何でもたたかって、そうして、勝たなければならぬのです。

でも何に?彼らは何と闘っているのだろう?地元の同級生?会社の同僚?就活?世間体?顧客?戦争?年収?

そんな気の遠くなるような戦いを見ていると、自分が性的マイノリティで良かったとすら思ってしまいます。

 

アウトカーストの特権

というのも一般的な男性社会女性社会の中で勝ち負けを決める競争で、僕らは勝負の土俵にすら上がらないからです。

僕たちマイノリティは自動的に外されたというか、カーストの中にすら入れないアウトカーストというか…。または生まれた時から負けだと考える人もいるでしょうね。

自分からその戦いに入っていく勇敢なマイノリティもいますが、僕にはとても真似できません。

明確で一般的な「勝ち」の概念があるから勝ち負けにこだわり始める。

ルールやゴールあるから「勝ち」があると言えます。兎にも角にも、勝ち負けにこだわる人が勝ちたい相手は他人や世間です。
太宰治が勝ちたかった相手もそんなところでしょう。

 

人生で勝つべき唯一の相手

ただ、そもそもマイノリティ云々以前に僕個人の意見としては、人生で勝つべき相手は自分だけだと思っています。男も女もオカマもオナベもゲイもビアンも

弱い自分や昨日の自分に勝って少しずつ強くなること。とても難しいけれど。

 

近所の人とたまにコーヒーを飲みながらいろんな話をします。その人は個人塾の先生で、入試の話をしていてこんなことを言っていました。

「世界中のどんな試験もね、結局勝たないといけないのは周囲の人間じゃなくて、自分自身なんだよ」

きっとそうだと思います。

 

人生における勝ち負けにこだわる人ほどブレやすくもろいというのが僕の経験則です。

世間が認めてくれる勝ちに依拠し、その勝ちの価値が失われたり勝てなかったりすると急に不安になる。

そして皮肉なことに、世間で勝ちに分類される人は大体自分にも勝っているんですよね。

最近話題の落合陽一氏の本を読みましたが、その中でも「日本は拝金主義すぎ、年収で人の価値を決めている」という話が出てきました。

 

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お金は大事です。でもその額で人の価値は決まらない。

みつをも言ってるじゃないですか、「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」と。

自分が定めたルールの中で、自分自身に勝っていくことが幸せにつながっていると思うんですけどね。いかがでしょうか。

おわり。

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