自分が1番自分のことなんか分かっていない

自分が1番自分のことなんか分かっていない

どもです。

「自分のことを知った風に語られると腹が立つ」

そんな風に思ったことがある人は多いことかと思います。僕もかつてはそうでした。

以前同期隊員とそんな話をしていて気が付いたのですが、僕は今はそういう風には思わず、「他人が解釈する自分もまた自分の真実の姿」だと思っています。

その辺のところのお話をしたいと思います。

 

自分のことなんか大して知らない

僕も年を重ねてきて少しずつ他人にどう思われても別にどうでもいいや、なんて思ってきて、その考え方が「自分のことなんか自分でもわからん」という意見を加速させているように思います。

前にもどこかで引用したことがある気がしますが、雨月メッツェンバウム次郎さんの「自分という他人」の中で語られる話は、僕も同じように感じています。

「自分のことは自分が一番よく知っているんだから、よく考えたほうがいいよ」と。

自分のことは自分が一番よく知っている。

確かに、これまでの何万時間の体験、何兆バイトの容量の思考を知っているのは自分だけだし、他の誰にも知られていないエピソードだってたくさんこれまでにあった。

でも、人って本当に自分のことが解っているのだろうか?そんな疑問が、ずっと昔から私の心の奥底にあった疑問が、じわりと蘇ってきたのです。

もし自分のことを自分がよく解っていたら、相性がそれほど良くない人と結婚してしまって2年で離婚なんてしないのではないか。たとえ離婚の理由が自分にあったとしても、その自分の欠損を込みで結婚するかどうか検討するのではないだろうか。

中略

もしかしたら、人間ってのは思ったより自分というものが解っていないのかもしれない。せいぜい自分がどんな体型をしていて、どんな味のカレーが好きで位のことしか解っていない。だから、自分の話を他人にすると気持ちがいいのです。他人が自分を理解してくれるからではなく、outputするときにまとめた自分像が自分を理解するのに役立つからなのです。

それでも僕は、外科医をやめない 「自分という他人」 cakes より引用

そうそう、人と話している中で急に考えが整理されて物事がクリアに見えることがある。自分が考えていることを話す機会が多い人ほど、自分のことをよく分かっているような気がします。もちろん自慢話や良い面の話しかしない人はこれには入りませんよ。

 

そしてさらに僕が思うのは、他人から見た自分の姿が自分にはわからないのは当然のことであり、他人にとっての自分というのはその人の目線で見た自分でしかなく、自分が思う自分というのは自分の中にしかいないということ。自分の中にしかいない自分はもはや存在していると言えるのか?

自分というのは他者がいるから成り立って、他者から見た自分は自分では分からない。だからある程度気の知れた人からの評価は、社会における自分像には近いと思うのです。

僕にその行為への意図があろうがなかろうが、本来の意図とは違う解釈をされようが、そのように捉えられてしまっている以上はそれもまた視点を変えた自分です。

それは他者から見た自分の最もリアルな姿で、少なからず僕は、誰しもそういう他者の視点によって構成されたパラレルな自分の集合体だと思っています。他者に対して、彼らが受け取った影響力があったということはわかっておいて損はないし、その視点は自分では絶対に持てません。

 

 

自分という原液が希釈されて飲み干されていく

この話の意味が分からないという人は恐らく自己像を唯一で多面的な存在と捉えているのかもしれません。僕は自分の存在が他者の中に入った瞬間に、その人の解釈した僕という独立した別の人格が生じるようなものだと思っています。それが合っているかどうかは置いておいて。

例えるなら僕という原液が誰かの主観によって希釈されて、その濃度を失いながらもその人にとっての僕であり続けるような感じ。

カルピスは原液でも、希釈されていてもカルピスです。僕が他者の解釈を織り交ざられてもやはりそれは僕なのです。

自分のことを分かってもらえないなんて言っても、普通はカルピスを原液で飲む人はいないわけです。まず原液で飲んでもおいしくないし。

みんなが自分の主観という(大抵は)味付きの水を使って各々の割合で希釈するからおいしかったりまずかったり、濃いと感じたり薄いと感じたりする。そもそも原液の段階で好みじゃない可能性ももちろんある。原液自体も均等に混ざり合ってはいないから味が薄い部分もあるし、ヘンな苦みを感じる部分もあるのかもしれない。飛び切り甘い部分も。交流を繰り返して更なる原液がつぎ足され、それをまた希釈するを繰り返して味が変わることもある。

噂話なんて、希釈(勝手解釈)された僕を勝手に人のコップに注ぎながらひろげられているような感覚にピッタリです。おいしく希釈してくれる人もいるし、薄味でちょうどいい人もいるのかもしれないけど。だから混じりけのない解釈なんてありえない。

そうやって自分の理解とは異なって捉えられている自分が、どんな風に立ち回ればいいかなんて、もう全然見当違いになっちゃってるのかもしれません。

そして自分自身は自分の味に慣れ切っているから、どんな味なのかもよく分からない。感覚がマヒしているのでしょう。

他人の原液をもらって比べてみることではじめて自分の味に気がつくこともある。

 

なぜこんな話をしたかと言うと、就職活動をするにあたって「自分の強み」を知り合いに聞いていったときに返って来る答えが予想外なものが多かったから。結局僕が一番僕のことを分かってないのかも、なんて思ったり。僕って包容力があるらしいですよ。これには笑っちゃったな。

僕のおいしい部分を惜しみなく褒めてくれる、いい友人たちを持ったなーと思うのです。それが僕のすべてではないにしても、素直に嬉しいじゃないですか。そういう人がいれば不本意な捉え方をされることがあっても、どうってことないと思えます。

いずれにせよ、無知の知を意識しておいて損はありませんね。

おわり。